旅の罪悪感から気づいた、本当に素敵な生活

ポルトガル旅行で訪れたコスタ・ノヴァという海辺の街。いかにもインスタ映えを狙ったような街並みですが、実は100年以上前からの歴史が。この地域は霧が発生しやすいため、漁に出た漁師たちが船の上から自分の家を見つけられるようにと、家を目立たせる風習が生まれたそうです。
私のTwitterやInstagramを見てくださっている方は薄々お気付きかもしれませんが、私、旅が好きなんです(それがどうした)。と言っても、月の半分以上は旅しているとか、旅ブログを書いて収入にしているとか、そこまでではありません。むしろ回数というより、自分の人生の中で、旅という存在に重きを置いているという感じです。
けれど、毎回旅をするごとに、自分の中で小さな罪悪感を感じることがあります。この罪悪感の正体は、「時間軸」の感覚の違いから生まれるものでした。
50年代の車に喜ぶ私と、90年代の車に集まる子どもたち
これまで旅した中で最初に罪悪感を抱いたのは、数年前のキューバへの旅でした。そのきっかけは、車。

昔の車って本当にデザインが素敵。内部は最新にして、外側はこのデザインが理想…。
この写真のとおり、キューバでは昔ながらの街並みが残っており、特に、1950年代前後のレトロカーが今でも現役で走っています。この昔ながらの街並みが、世界の観光客を惹きつけているのです。私は普段、車にさほど興味はないのですが、昔の車はとにかくデザインが可愛くて、現地で実物を見てテンションが上がり、何枚も写真を撮るほどでした。
そんなキューバ滞在が数日を過ぎたころ、少し遠出をするために、レンタカーを手配したことがありました(夫が)。複数のレンタカー屋さんをたらい回しにされた後、やっと借りることができた車は、90年代製のセダン。メンテナンスもそんなにされていなかったので、日本人の私たちの感覚では、結構年季の入った車だなーという印象。しかし、その車を運転していると、子どもたち、そして大人までもが寄ってくるのです。しかもその反応が、めちゃめちゃクールな新しい車だね!羨ましい!というもの。私はその時、彼らとの認識のギャップに大きなショックを受けました。一昔前のちょっとボロい車という認識と、新しくてクールな車という認識。とても同じ車を指しているとは思えません。
それもそのはず。キューバでは1959年の革命以来、2014年まで新車の売買が禁止されていたのです。なんと半世紀もの間、車産業の時が止まっていたという驚くべき事実。そのため、現在でも昔の車が多く走っているのです。
日本の1950年代といえば、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機がやっと世の中に登場したくらい。もし日本でも同じような規制があったとしたら、今でも、歴史の教科書で見たような白黒テレビを使っているということになります。信じられないですよね……。車だけではなく、日本ではもはや歴史資料館行きのような古い扇風機やラジオも、いまだに街中では現役で使われていました(携帯電話などの通信機器は、都市部では普及しているようです)。
観光客と生活者の大きな違いは時間軸
このレンタカーに対する反応のギャップを目の当たりにした時、「ああ、私は自分にとって、短期的な物珍しさだけで旅先を見ていたのだな」と自覚したのです。50年代の車なんて、私にとっては教科書や映画でしか見たことがなかったので、純粋に目新しく、見た目だけに惹かれていました。実際に50年代の車に乗ると、揺れはすごいし、空調もほぼ効いていない。エアバッグなんてものも当然ありません。こんな車を毎日使うのはさすがに不便。安全性にも不安があります。私たちが借りた90年代製の車でさえもクーラーが壊れていたので、窓を開けてしのいでいました。でも、キューバで暮らす人たちは、そのような不便が日常であり、当たり前でもあるのです。
キューバには、世界の多くが失った昔ながらの景観や製品が今でも残っています。観光客としては、この光景がいつまでも残っていて欲しいと願ってしまう。一方で、それって、国の発展を阻むことでもあるので、外から来た人の大いなるエゴでもあるのだなと反省もしました。もちろん、それ自体が観光資源となって産業を生み出していますし、昔の文化が守られるという点では、全てが悪いわけではないと思います。しかし、それはあくまでも、現地に住む人々が望む形でないと、部外者の勝手な考えだと思ったのです。
観光客を私なりに言い換えると、短い期間だけその場所で楽しむ人。どうしても観光客視点だと、今自分が観光している瞬間だけ、物珍しさやノスタルジーに浸る材料があれば満足という発想になりがちだと思っています。過去その場所がどうであったか、そして、未来にどうなっていくか、という視点ではなく、瞬間の娯楽として消費してしまう。つまり、観光客は短期視点で物事を見てしまいがちなのではないでしょうか。一方で、その土地で生活している人々は、今日も明日も明後日も、場合によっては死ぬまでそこで生きてゆきます。先祖代々住んでいるという歴史や思い出もあるでしょう。だからこそ、生活者は長期視点で、その場所について考えていると思うのです。
観光する日本人ではなく、される日本人
私が住んでいる街は東京なのですが、最近は、本当に海外からの観光客が増えたなあと感じます。特に今年はコロナ明け&円安のダブル効果なのか、繁華街に行くと、日本語よりも外国語のほうが飛び交っている場所もあるほど。今まではどちらかと言うと、観光客の立場を経験することが多かったのですが、最近では、観光地に住む生活者という立場を感じる機会が増えました。
例えば渋谷。1日に何十万人もの人々が行き交うスクランブル交差点。私も幾度となく通っていますが、「もうほんと人が多くてまっすぐ歩けないよー」という感じで、ため息混じりに歩くことが多いです。でも、これが観光客視点なら、この人の多さ自体がエンタテイメントになります。また、渋谷の街を爆音とともにド派手なビジュアルで走る宣伝トラックも、私にとってはただうるさくて迷惑この上ないものなのですが、観光客視点だと、「なにこのトラック面白い!」と思えるものかもしれません。しかし、この観光客がもし東京で生活し始めたとしたら。ごちゃごちゃとした人混みに疲れたり、爆音で走る宣伝トラックに煩わしさを感じたりする可能性が高くなると思います。
このように、観光客が求めるものと、生活者が求めるものが違うという例は、他にも様々存在しているのではないでしょうか。これもまた、短期で過ごす人と、長期で過ごす人の「時間軸」の違いが、ニーズへのギャップを生んでいるのかもしれません。